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「中国・四国だより」保存版(2001年)
 
Elektitaj bultenoj de la jaro 2001 <Bulteno de Chu^goku-Shikoku-regiono en Japanio>
 



目次



中四国だより 104号
● 1. Eメイルの即時性と人財豊かなエスペラント界 [2001.04.05/三好/香川]
 
中四国だより 126号
● 2. 私に勇気をくれた人(長文)  [2001.05.27/匿名氏/昨日渡欧]
 
中四国だより 134号
● 3. 第4回中国四国エスペラント大会報告   [2001.08.27/長野/広島]
 
中四国だより 141号
● 4. 世界連邦運動理事会で承認されたEspセミナー(長文)  [2001.09.12/三好/香川]
 
 
 
 

● 1.*** 
Eメイルの即時性と人財豊かなエスペラント界 ***
 
             三好鋭郎
 
 昨秋、イランから来ていた英語とエスペラント教師のレーザーさんが、台湾の女性と結婚して台湾に移住した。そこで、ニュージーランドのサットン先生やベルギーのローデ先生など前任教師を含む14人と、9名の日本人エスペランチストに対し「英語とエスペラントの先生を紹介してほしい」と、10月末にEメイルを発信して訪中した。3日後に中国から帰ってくると、世界中から25名もの応募が届いていたのには驚愕した。さらに、連日増えつづけ11月末までに60名を超えた。
 
 スワニーで月に約百時間づつ英語とエスペラントの授業を行い、週末に高松と徳島のエスペラント・クラスでレッスンを受け持ち、15万円ほどの月収である。日本への入国ビザ取得のために、両言語の公的機関の証明がいるというのが条件だ。
 
 結果、クロアチアで英語とエスペラントの教師をしていた英国人で、リバープル大学を卒業したリチャード・ニューサム氏に来てもらうことになった。自国語のごとく流暢に話せるトップレベルの教師により、昨年の12月から連日連夜の特訓が再開されている。
 
2番目の候補者はオランダのUEAで、月刊誌『エスペラント』の編集をしていた人でした。彼は米国で最難関といわれるハーバード大学を卒業し、長年出版業界で編集にたずさわってきたベテランでした。
 
 3番目は、ロシアはクラスノヤルスク市の師範大学で英語とエス語の先生をしており、4番目は、インド人でUEAために英・エスペラントの辞書を編纂した博士である。上位13名は選択に苦慮するような経歴があり、あるブラジル女性から、旅費は自分が持つから採用してほしいと懇願され、リトビアの大学で英語の先生をしている主婦のグラニーザさんからは、同国では月に5千円しか稼げないので、是非日本に招いて欲しいと泣きつかれた。
 
コンゴには252名のエスペランチストが活動していて、その会長だという青年や、ムワンダ人で五年間英国に留学していた若人も応募してきた。タンザニヤから5名もの高学歴者の応募があり「英語の実力は」と問い合わせると「誕生日から英語で育ったので全く問題ない」と返事されたのには驚いた。更に、ガーナから2名にムワンダなどなどアフリカから大勢が応募してきた。
 
トルコでは車メーカーのボルボ社の英語教師や、ウズベキスタンはサマルカンド大学の英語教師で同エスペラント会会長、その他、中国、ブリガリア、クロアチア、イタリヤ、イラン、コロンビアなど22カ国からの60数名であった。何度かやり取りしても国名が判明せず、メイルがうまく届かない地域もあり60数名と表現した。
 
私が23人にEメイルした先生の募集が、わずか10円足らずで地球上の数千人を駆け巡ったようで、読売新聞の拙文『エスペラントで世界を一つに』がエスペラントに翻訳されて、百カ国以上に流通している『エベントイ』や『ヘラルド』に掲載され、私が世界のエスペラント界に知られたことも幸いしたようだ。
 
更に、大きいおまけまでついて、今後の対応に苦慮している。イタリヤ人でUEA副会長のコルセッティー博士や、アフリカ活動のUEAの理事でトゴランドのコフィー氏、クロアチアのエスペラント会会長のスポメカ女史ならびに、日本のエスペランチストなどなど、いずれも私の友人による推薦合戦が行われ、早く早くと急がれて11月末に1件落着したのである。エスペラント界の予想以上の豊富な人財と、1つの国際語で自由自在に交流できる夢の世界に心酔するとともに、人類を隣組にまとめてしまうインターネットの即時性に驚嘆する経験だった。
 
(編集者注:この記事は近い将来、新聞にも掲載される可能性ありとのこと)
 
 

● 2.*** 私に勇気をくれた人 ***
 
 本人の希望により、固有名詞の多くは編集者が仮名に変えました。
 なお、この文の筆者より、大量(段ボール5箱)のエスペラント関係書籍等が編集者(小阪)に託されました。小阪が必要なものを取り、残りは香川エス会のメンバーに使っていただきました。
 
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     2001/05/27    HH 宮の滝
 
 今私の部屋は散らかっている。引越しの荷造りの最中である。なかなか要領よくは進まない。なぜ引越しをするのか。私は2年前、中期の将来を考えて引越しを決めた。私達家族の住む所はチェコにしよう。家族はすぐ引越しをし、私はここに残って働き、今その時が来た。日本からチェコに、それは幾らかの勇気が必要だ。
 
 私は中学校の初めから英語がさっぱりできなかった。その裏返しか、国語の教科書にエスペラントの事が載っていたそれに少しの興味があった。高校を出て大阪に働く中、エスペラントに出会った。そこにいろいろな人と出会い、いわゆる「エスペラント運動」に熱心な人達を見た。私と前後して習い始めた人には、学習1年で明晰に外国人と会話をするひともいた。
 エスペラント運動、それは高邁な理想を掲げている。中立公平な国際語、学習のやさしい言語等。私は、入門をかじり、やめはしなかったが、長くものにはならなかった。「エスペラント世界大会」に二度参加した。最初は、カナダのバンクーバーへ。そこではヨーロッパから来たお年寄りエスペランチストが涙を流しながら、「タギージョ」を歌う姿を見て、失望した。二度目は、エスペラント誕生100年祭の年、その誕生の地、ポーランドのワルシャワへ行った。その大会の前に「クラクフ」で「エスペラント世界青年大会」があり、それにも参加した。そこで私は今の妻、当時のIJにであった。
 
 当時、私はもう若くなく、田舎で百姓やその他の仕事をしていたし、農家の長男という事もあって、結婚はいわゆる、絶望的だった。私は親達の大家族を見ていて、結婚がそれほど楽しいものとは思っていなかったが、少しのあこがれはあった。私は20歳の頃から、家族の関係、たとえば、父の世話をする母、食事の用意をし働く母、を不自然と思っていたし、もし妻とよぼれる身分の人が、仕事を持たず、ただ夫の世話をし、食事の用意をしていたら、妾や愛人と呼ばれる人とどれほどの違いがあるのだろう、一緒に過ごすという観点からは、その人達がより純粋ではないのかとさえ思っていた。私は平等な関係が良いし、また、アートを理解する人、自然を愛する人、考えが地についた人がいたら一緒に暮らしてみたいなと思うようになっていた。そんな事を近い人に話すと、「あまえなあー、この田舎でそんなこと言うても、そんな人は・・・」とお説教をくらった。結婚へのあわいあこがれは消えかかっていた。
 
 私が日本人だからか、東欧の美人の娘さんが二人、私に気安くカメラのシャッターを切って欲しいと話し掛けてきた。たどたどしいエスペラントで話してみるとその一人は「私は自然が大好きで、だから山の町へ引っ越しました。絵の先生をしています。」と言った。そのしゃべりから彼女がミーハーで無い事は明らかだった。クラクフでそしてワルシャワで何度か会い、話をし、手紙を書き、君を訪ねるから、と言ってワルシャワで別れた。彼女に会って一時間もした頃、私にある変化がおきていた。
 
 エスペラントで世界の人と話しができる。差別は悪、平等は善、私の結婚に対する淡いあこがれ、理想の人、そんな人が今目の前にいる。さあ私はどうするの。日頃のお題目はどうするの、と自分に問うた。人生が何なのか、少し分かったような気がした。何の恐れも無く、気負いも無く、自然に私の心は一つの方向を示していた。3年間のおつき合いの後、私達は結婚をし、日本に住んだ。二人の娘が生まれた。子供が日本の学校教育を受ける事が、子供にとって幸せかどうか不安であった。そしてチェコへの引越しを決めた。
 
 私が高校卒業後、大阪で働き、それを3年で止め、田舎に帰って百姓をした。百姓をしていたある年、私は神秘体験をした。その年は年の始めから少し変だった。何をするにも体が自然に動き、自分の体が自分で無いようだった。もう一人の誰かが空の上から私を見ているような気がした。その頃、ほぼ毎日、12時からアマチュア無線でハワイからの通信を聴くのが日課になっていた。5月のある日、ハワイのラジオネーム「ブーノ」が「前田令子 mortis」と叫んでいた。その日の午後の農作業の間中、「前田令子 mortis」の言葉が私の頭を占領した。私より1年先にエスペラントを習い始めた、あの頭脳明晰な、しかし病弱な彼女だった。
 
 その年の6月、エスペラント関西大会に参加していた時、大西学さんが、そっと彼女の「がん」との闘病日記を見せてくれた。読み始めると涙が溢れて止まらなかった。その文集が届いた時、また涙が溢れた。その後も本棚の「きびたき」と目が合った時、自分の心がすさんだ時、この本を読ませてもらう。いつも涙が溢れ、段々と心が洗われてくる。
 
 その後、私が何かの決心をする時、彼女に問い掛ける。結婚しようと思った時、彼女に「これでいいんだよね、間違ってないよね。」と話し掛けると、笑顔が返ってきた。「私達家族はチェコに引越しをしよう、間違ってないよね」と問い掛けると、彼女のおだやかな笑顔が返ってきた。
 
 一人の人間がどちらかといえば短い人生を終えた。彼女は彼女を知る人に沢山の生きる勇気をくれた。私にも。私はいつももらってばかりですまないと思うが、この本をチェコの荷物に加えよう。本当にありがとう。





● 3.*** 第4回中国四国エスペラント大会報告 ***
 
 第4回中国四国エスペラント大会を8月18日、19日の両日、残暑厳しい広島の弥生会館で開催しました。 
 呼掛けに応じて集まった仲間は実参加35名、不在参加13名でした。
 各県からの参加者状況は、大阪(不在 2)、兵庫 1(2)、高知 2、徳島 1(1)、香川 4(1),愛媛 3(1)、島根(1)、岡山 8(1)、山口 2(1)、広島 14(3)でした。 
 又、欠席者8名から大会へのメッセージが寄せられました。
 18日18時より忍岡大会会長の挨拶で大会が始まり、八木冨士雄氏(岡山)の乾杯挨拶で懇親会に移りました。 柴山純一氏(日本エスペラント学会)の大会へのメッセージを中塚公夫氏(愛媛)が代読しました。
 昨年に続き池上駿氏(高知)が軽妙な腹話術で会を盛り上げたり、インタビューコンクールと称して、“あなたにとってエスペラントとは”等の質問を相互に行なうなどして大いに交流しました。  
 会の最後は会長が「PROJEKTO21」について語り、関連アンケートも要請しました。 その後の自由交流では「エスペラント運動」の継承問題、次回大会日程等が活発に夜遅くまで話し合われました。
 19日9時より公開分科会「もうひとつの地球の歩き方」と「エスペラント語2時間講習」を行ないました。
 残念ながら宣伝ビラの効果なく、一般からの参加者はありませんでしたが熱心な応答を交えておこなわれました。
 旅・クロアチアでは原田秀樹氏(岡山)から世界大会の様子、文化の背景等が報告されました。又、忍岡妙子氏の大会参加アルバム、風景画の展示からも大会地の様子がうかがえた。旅・ベトナムでは近藤秀敏氏(徳島)から故石川雄氏とともに進めてこられた「CHARITY MEDICAL CENTER」建設支援の経緯がパネルを使って報告された。支援活動でのエスペラントの位置付けに関する理解を深めた。旅・韓国へ行こうでは忍岡会長の来年のアジアエスペラント大会(韓国)を目標にした具体的な計画が報告された後、既に十数回韓国での交流の旅経験者福井政春氏(山口)が言語事情、食文化、貨幣価値感覚等詳細に話された。
 講習会では小阪清行氏(香川)が自作のテキストを使って指導された。広島エス会の新入会員である石見和子氏をはじめとした12名が、学習、教授法等夫々の目的で熱心に受講した。
 昼、広島名物「お好み焼き」や「穴子飯」をグループで楽しんだ様子でした。
 午後、「言語革命のために捨石になる」と題して三次鋭郎氏(香川)が企業活動を通じての言語体験、欧州での言語問題、エスペラント広報活動状況や目標などが熱く語られました。  
 閉会行事では、峰芳隆氏(兵庫)から関西エスペラント連盟を代表しての挨拶、日本大会林間学校への参加要請がなされた。
 なお大会期間中はKLEGの図書展示販売が行なわれていました。
 インタビューコンクールの優秀者には粗品を進呈しました。
 記念撮影の後、閉会宣言と同時に兵庫仁美氏(広島)から原田秀樹氏(岡山)に大会旗が手渡され原田新会長が、“岡山大会に是非参加を”の言葉で閉会しました。なお、来年の大会は8月17日、18日に鴨方(岡山)で行なわれること、中国四国エスペラント連盟会長に原田秀樹氏、事務局長に三沢義郎氏が決定しました。
 大会開催にあたり多くの仲間の協力が得られたことや、準備を通じて各地の多くの仲間と交流できたことを感謝して報告を終わります。   
     長野義昭
 
 

● 4.
*** 世界連邦運動理事会で承認されたEspセミナー ***
 

世界連邦運動(WFM)2001年度理事会報告
(01/09/06-07、VENTOTENE ITALI、WFM理事三好鋭郎(えつお)

01/09/05 18:00ローマからナポリ行きの電車で90分走りフォルミア駅に着き、ステッキバッグを押して10分歩いて夕日が輝く地中海沿岸の船着場に着いた。19時発ペントテイネ島行きの水中翼船が欠航して途方にくれていると、「WFMの方ですか」と、MACEL(蘭)氏が寄ってきて「明朝9時発の船に乗ってください。会議は午後1時からに延期されました。大勢が足止めされホテルが足りません。早く宿を探してください」といわれた。NEILSEN(デンマーク)女史とタクシーをひろい、洗面所やシャワーは彼女と共同という不便さだったが、さいわいに一晩寝る部屋が確保できた。チェックインすると直ぐに私の部屋をノックする人があった。WFM副理事長で元百十四銀行白鳥支店長だった、当時兄「和昭」の仲人をして頂いた香西俊雄さんだった。そこで、湘南での2000年度の理事会以来の再会を喜びあった。
01/09/06 12:00-14:00 人口5,000人の丘の上の市庁舎が会議場で、石段と絶壁の海岸通りを150Mほど歩いてくだった。絶壁の南下の海水浴場では数百人が泳いでいて、2KM沖の絶海の孤島にはローマ時代からの牢獄がそびえていた。茅葺きの料理屋の軒下から紺碧の地中海が広がり、26ヶ国から55名(日本3名)の理事は、美味しい魚料理に舌鼓をうった。
ムッソリーニ政権に投獄されたA・スピーネリーが、全欧州の平和を目指した「ベントテイネ宣言」を発表し、EU議会憲章を草案し同議長として辣腕をふるった歴史がある。ちょうど今年が同宣言から60周年で、世界中から集まった学生や青年たち130名も、1週間の「WFM主催のセミナー」に参加し、平和を希求しともに語りあっていた。
01/09/06 14:00-19:30第1回会議:CHRISTIE理事長(加、牧師)や、K.BEST執行委員長(英、元保守党国会議員)の報告ならびに、B.PACE執行理事による国際事務局の報告があり、WFMの今後の戦略計画について活発に審議された。
米国ではフォード財団やマッカーサー財団などが支援し、国連ビル内の一室がWFMの本部で、年に約5億円の予算を持ったNGO活動である。日本では綾部市が世界連邦宣言都市第1号で、1都2府25県349市町村が同宣言をしている。
01/09/06 20:00-23:00ホテルの食堂での会食が行なわれた。
01/09/07 09:00-13:00第2回会議:国別の加盟団体の状況報告が、かなりの時間を費やして行なわれた。
日本の活動状況について香西副理事長が発言し、昨秋の綾部市での第22回世界連邦日本大会や、国際刑事裁判所の設立条約批准促進、世界連邦国会決議の促進、小中学生のポスターや作品コンクールなどについて報告した。
デンマークでは「10年間に200名から700名に会員が増え、35歳以下が過半数を占める」と、NEILSEN女史が報告した。
金光教3代目の三宅光雄理事は、「現在休眠中の宗教委員会を再会して欲しい」と提案した。
01/09/07 13:00-15:00恒例の理事長主催の円卓会議は、船の欠航による遅れを取り戻すために昼食を挟んで行なわれ、ミラノ大学の教授でLEVI執行理事と、カナダのWATT理事の講演を聞きながら行なわれた。
01/09/07 15:00-20:00第3回会議:国連や世界の諸機関に関する事、WTO議員総会-国連議員総会-補完か対立か、などが議論され、LONDONのIMPERIAL COLLEGEで行なわれる第24回WEM世界大会(02/07/11-16)に関して詳細が確認された。
発言が相次ぎ終了時刻が1時間も超過した。私の発表時間が無くならないかと心配していると、「発言者は後3名とし、三好氏で終了します」と予告され、香西氏とKUMARAN(印)氏から全参加者に資料を配って頂いて、私は練りに練った別紙英文の朗読を行なった。理事長から「言葉の問題は大変に重要なので、来年のLONDONでの世界大会で、エスペラントのワークショップやセミナーを開きます」と応えて頂き、大きい拍手とともに全日程を終了した。
01/09/07 20:00-22:00お別れパーティー、その他
@   フォルミアの港で逢ったMR.MACEL(蘭)氏は、「エツオのいうエスペラントには大賛成だが、若し世界がエスペラントと自国語で通じるようになれば、蘭、独、チェコ語の翻訳業の私と家内は失業します」といわれ困った。ひと呼吸し「通貨がユーローに統一され、両替費や為替リスクが消滅するように、コミュニケーションの費用が削減され、国民の負担が大幅に軽くなります。即ち、人類の生活がより豊かになるということです」と回答した。
A MR.OLSSON(スエーデン)氏からは、「英語力によって差別が拡大するので、君の提案に全く賛同するが、我々の世代の大半は既に英語ができるので、今からエスペラントを習うのは大変だ」と問題が提起された。
B MS.JONTEN(スエーデン籍)嬢は、育ちのよさと気品が漂う絶世の美女(生後4ヵ月からスエーデンの一家で育てられたインド人)で、エスペラントに興味を持ち「英語で習える教材があれば教えて欲しい」と要望され、メイルでの交流を約束した。2003年の彼女の住むGOTHBURG市での「世界エスペラント大会」に参加してくれる。
C   MR.RITCHIE(英)夫妻の親友は、J.ROBERTSという私がSAN FRANCISCOでのWFM世界大会と、FINLAND TAMPERE市での世界エスペラント大会で逢った人で、「君の発言は正しく、よく言ってくれた」と硬い握手をしてくれた。
D MR.KUMARAN(印)氏から、英語の会議で、英語に反対した貴方の発言が最も印象強く、衝撃的だったと絶賛された。
E 名刺交換者:MR.W.PACE(米、本部専務理事)、MS.M.SAFAVI(米、NY職員)、MR.R.PANGANIBAN(米、本部会員担当役員)、MR.E.CHOBANIAN(米、元世銀要職者)、MR.A.KNIGHT夫妻(米、WFA事務局長)、MR.SATAVI(米、宝石商)、MR.A.MACEL(蘭、通訳)、MS.B.NIELSEN(デンマーク、WFM会長)、MR.D.LAMA(ネパール、学校長)、MR.Y.PANT(ネパール、元国会議長)、MS.M.ADHIKARI(印、州最高裁弁護士)、MR.V.KUMARAN(ASIAN YOUTH CENTER事務局長)、MR.W.ARPUTHARAJA夫妻(執行理事)、MR.R.BREIVIK(ノールウェー、元海軍提督)、PROF.L.LEVI(伊、ミラノ大教授)、MR.F.WATT(加、WFM専務理事)


世界連邦の実現は、エスペラント運動から
日本語への翻訳文
自然科学分野でのノーベル受賞者数はアメリカ人の198名、イギリス人の69名、以下ドイツ、フランスと続き、日本は13番目で白川博士で6人目である。科学レベルでの日本の「格付け」はそんなに低いのだろうか。ちなみに特許の出願件数では日本は世界のトップを走り、昨年は47万件でアメリカの27万件をはるかにしのぐ。その果実である外国との技術料収支は昨年度から均衡に転じ、月々黒字が増えつつある。基礎科学重視のノーベル賞と応用技術の特許を同じ土俵で論じるのは乱暴にしても、差がありすぎないか。
もし、学術論文が日本語のままで世界に通用していれば、ノーベル賞の国別ランキングは様変わりしないだろうか。アジア、アフリカ、中南米の人たちが英語の習得に骨身をけずっている間に、英米人はその先を走れる。先端技術はもとより映画、音楽、文学、スポーツなどあらゆるジャンルで、言葉の苦労から免責されているのだから、有利さは計り知れない。アメリカ文化が世界を席巻するのは、そのへんにもよるだろう。いま地球の隅々で英語力によって職業や給与で差がつき、結婚まで差別が起こりつつある。
 冬物やスポーツ手袋のメーカーである私は、30数年前に初めて欧米にセールスに行ったが、その時の言葉の苦労は一生忘れがたい。英語で交渉するハンディーに打ちのめされ言葉の絶壁に立ち往生。「英語をやろう。それなしに世界に進出できない」と誓い以後、独学を始めた。車の運転中にケネディーの講演テープを七百回もヒアリングし大声でしゃべったのも今はいい思い出だ。その後、工場を韓国に進出させたときにも猛特訓で、韓国語会話を身につけたが、中国へ事業を展開してからは現地語の学習はあえて止めてしまった。次々と外国語を覚えるのは年齢的にもむずかしいこともあったが、エスペラント語の理想に心酔したことが最大の理由であった。
ポーランドのユダヤ系医師ザメンホフは、民族の抗争と戦乱の続くヨーロッパにあってみんなで分かり合える共通の言語こそ、平和をもたらす基礎であると信じ世界共通語のエスペラント語を創始した。霊感にふれた思いで私は6年前から外国人教師について勉強を開始。毎晩3時間の特訓を続けているうちにどうやら意志の疎通ができるまでになった。日本人は子供のころから長年英語を学びながら、流暢に話せるのはほんの1握りだ。英語には「a」だけでも7種類の発音があり、辞書の大半が例外の説明というむずかしさだ。明治以来、われわれの英語力は挫折の連続といっても言い過ぎではなかろう。
エスぺラント語は例外がまったくなく、16条に簡素化された文法はいたって覚えやすい。1字1音、スペルそのものが発音記号なので英語の5分の1の労力で習得可能だ。まじめに励めば、学校教育だけで1人前の国際人になれる。
ヨーロッパから始ったエスペラント運動は、100年以上の歴史を経てグローバルに広がった。インターネットでの交流が急激に増え、百ヶ国以上で飛び交っている。バチカン放送、ポーランド放送、北京放送など10数局がエスペラント放送を流し、世界各地のエスペラント協会などが辞書や教材を頒布、高校、大学で授業を始めるところも出てきた。ザメンホフのまいた種は大きく育っている。なかでも総本山ともいえる欧州では、ヨーロッパ連合の議員626人のうちエスペラントの支持者は130人を超え、5分の1を占めるまでになった。同議会の全欧急進党は2005年までに、これをEUの共通語にする政策を掲げている。
世界連邦の実現には世界の凡ての民族に対して、不平等きわまりない共通語「英語」使っていては極めて困難である。英米が富み世界を貧困に陥れる英語化は、いずれ2国とその他の国々を戦争に導く危険性をはらんでいる。世界連邦運動を推進する私たちは、たった1つの地方語「英語」を世界の共通語に選ぶことの危険性に目覚め、凡ての民族に平等な共通語「エスペラント運動」を、我々の運動の柱の1つとして推進するよう提案する。わたしはこのひと言をお願いしお伝えするために、世界連邦運動の因縁の地イタリヤのベントテイネ島にやってきました。どうかよろしくご検討のほどをお願いします。
会社〒769-2795香川県大川郡白鳥町松原981 T:0879-25-4101 F:23-1003
潟Xワニー社長三好鋭郎(えつお) e.miyoshi@swany.co.jp
世界エスペラント協会・日本エスペラント学会終身会員、大本エスペラント普及会理事、世界連邦運動(WFM)理事